2007年03月17日
6号線の旅 そのイチ~亘理~
福島の田舎に帰郷するときはいつも高速道路をつかうわたし。たまには風景を楽しみながらドライブするか~ということで、6号線通ってみました
まずは亘理
臥牛城跡(旧舘公園)と小堤城跡(大雄寺)、ふたつの城址に行ってきました。
まずは亘理
臥牛城跡(旧舘公園)と小堤城跡(大雄寺)、ふたつの城址に行ってきました。
牛臥城跡
亘理神社に建っていた、亘理町教育委員会の「亘理要害図」を参考に作成した地図です。
左は元禄15年(1702)当時の様子。右はそれに現在の様子を重ねたもの。
図中の番号は、下記の写真を撮った位置を示しています。少しでも状況が伝わったらと思います^^
1) まず驚いたのは・・・・この、ベニマルの駐車場・・・・藩政時代の伊達成実居城が、こんな感じでちょっと悲しいです;
地図で分かるとおり、ここは分断された本丸東側のちょこっと残っているほう。メインは西側なので、標識がなかったらたぶん本丸って気づきませんでした
2) 近寄ってみました。
1)の写真のちょうど枯れ木のあたり??
3) 社員専用駐車場から。
『急な坂なのでサイドブレーキは必ずかけてください!』という注意書看板が・・・・笑
4) 反対側から。
そして、ふと後ろを振り向くと・・・・
タル????
5) まわり込んで覘いてみると、亘理要害略図と成実・景綱の解説が、ふたつのタルにそれぞれ書かれていました。どうやら酒屋さんがお作りになられたものみたいで、だから酒樽だったんですね~ なっとく=3=3
6) 南北に通じる町道(切り通し)
左が旧舘公園側本丸跡、右がベニマル側本丸跡です。町道は明治に入ってから開かれたもので、それ以前はこの場所には詰の門がドーンと見えていたはず。み、見たかった・・・泣
7) 旧舘公園入口
右に本丸跡、真ん中に臥牛像(?)、左奥・フェンスの向こうに蚕業試験場があります
牛にズーム
いわれてみればこの要害、牛が伏せているようにみえるかも・・・・?
8) 公園入口のほうを向いて撮影(中央の写真)
9) 滝が!!!けっこう勢い良く水が落ちてました
←内堀跡全体
「亘理要害(御舘)内堀跡」本丸を囲む内堀の一部で、薬研堀または薬研沼といわれていた。かつて要害本丸は北、東、南を内堀で囲まれていたが、北、東の堀は埋め立てられ、現在残っているのは南側の一部のこの堀(沼)だけである。亘理要害の原形が分かる遺構は現在ほとんど残っていない。(案内板より抜粋)
10) くねくねと石段を上って本丸へ~
本丸から内堀跡を見下ろしているアングルです
11) 亘理神社(本丸跡)
本丸跡は亘理神社になっています。
本丸跡に来るには、内堀跡から上ってくる方法と、町道側の階段から上ってくる方法があります。(この写真は町道の階段から見上げるかたちで撮りました)内堀跡からだと、まず成実の碑と出会います。正式には「亘理神社の碑」成実は明治12年亘理神社に祀られ、神号を武早知雄命(タケハヤチオノミコト)といい、彼の生涯を刻んだものを同30年に建立したものだといいます(案内板参考)
武早知雄命っていう神号が、知勇を兼ね備えた文武両道の武将・成実をそのまま表してますね
そして亘理神社の脇に、旧亘理要害の案内板と要害図がたってます。
↓↓↓以下、案内板より抜粋↓↓↓
「旧亘理要害(御舘本丸跡)」
要害の大手は南で、大手門は本丸の南下にあった。本丸に南から入る詰の門、北から入る裏門は切り通しの部分にあった。
明治維新まで本丸には二十棟以上の建物が建っていたことは確かであるが、維新後間もなく総て取り壊され、資料も残っていないためその実態は不明である。
戊辰戦争で仙台藩が敗れ、西軍との降伏の調印が行われたのはこの場所である。
↑↑↑↑↑↑
12) 本丸跡から北を眺める・・・・っていっても、風景が変わりすぎちゃっててなんとも^^;(写真右)
小堤城跡(大雄寺)
伊達成実の菩提寺で、亘理伊達家霊屋と歴代墓所があります。
本殿の屋根(屋根っていうのでしょうか・・・;)
よ~く見ると、竹雀紋(左写真・左下)と三引両紋(右写真・やや左上)が
去年の夏頃に地元の方々が成実霊屋を修復をなさったのですね。とても発色が良くて、その中でも赤色が印象的でした。案内板も新しく建てられていました。それから、二代~五代夫人までの宝篋印塔(ホウキョウイントウ)という墓石のつくりがとても美しかったです。
亘理での最後の写真は、大雄寺から一望できる亘理の町並み。
わたしはどちらかというと山に囲まれた生活をおくっているので、海沿いの町の、視界いっぱいに広がる平野が新鮮で大好きです。
月曜日に出発したので、悠里館に寄れなかったのが残念
亘理神社に建っていた、亘理町教育委員会の「亘理要害図」を参考に作成した地図です。
左は元禄15年(1702)当時の様子。右はそれに現在の様子を重ねたもの。
図中の番号は、下記の写真を撮った位置を示しています。少しでも状況が伝わったらと思います^^
1) まず驚いたのは・・・・この、ベニマルの駐車場・・・・藩政時代の伊達成実居城が、こんな感じでちょっと悲しいです;
地図で分かるとおり、ここは分断された本丸東側のちょこっと残っているほう。メインは西側なので、標識がなかったらたぶん本丸って気づきませんでした
2) 近寄ってみました。
1)の写真のちょうど枯れ木のあたり??
3) 社員専用駐車場から。
『急な坂なのでサイドブレーキは必ずかけてください!』という注意書看板が・・・・笑
4) 反対側から。
そして、ふと後ろを振り向くと・・・・
タル????
5) まわり込んで覘いてみると、亘理要害略図と成実・景綱の解説が、ふたつのタルにそれぞれ書かれていました。どうやら酒屋さんがお作りになられたものみたいで、だから酒樽だったんですね~ なっとく=3=3
6) 南北に通じる町道(切り通し)
左が旧舘公園側本丸跡、右がベニマル側本丸跡です。町道は明治に入ってから開かれたもので、それ以前はこの場所には詰の門がドーンと見えていたはず。み、見たかった・・・泣
7) 旧舘公園入口
右に本丸跡、真ん中に臥牛像(?)、左奥・フェンスの向こうに蚕業試験場があります
牛にズーム
いわれてみればこの要害、牛が伏せているようにみえるかも・・・・?
8) 公園入口のほうを向いて撮影(中央の写真)
9) 滝が!!!けっこう勢い良く水が落ちてました
←内堀跡全体
「亘理要害(御舘)内堀跡」本丸を囲む内堀の一部で、薬研堀または薬研沼といわれていた。かつて要害本丸は北、東、南を内堀で囲まれていたが、北、東の堀は埋め立てられ、現在残っているのは南側の一部のこの堀(沼)だけである。亘理要害の原形が分かる遺構は現在ほとんど残っていない。(案内板より抜粋)
10) くねくねと石段を上って本丸へ~
本丸から内堀跡を見下ろしているアングルです
11) 亘理神社(本丸跡)
本丸跡は亘理神社になっています。
本丸跡に来るには、内堀跡から上ってくる方法と、町道側の階段から上ってくる方法があります。(この写真は町道の階段から見上げるかたちで撮りました)内堀跡からだと、まず成実の碑と出会います。正式には「亘理神社の碑」成実は明治12年亘理神社に祀られ、神号を武早知雄命(タケハヤチオノミコト)といい、彼の生涯を刻んだものを同30年に建立したものだといいます(案内板参考)
武早知雄命っていう神号が、知勇を兼ね備えた文武両道の武将・成実をそのまま表してますね
そして亘理神社の脇に、旧亘理要害の案内板と要害図がたってます。
↓↓↓以下、案内板より抜粋↓↓↓
「旧亘理要害(御舘本丸跡)」
要害の大手は南で、大手門は本丸の南下にあった。本丸に南から入る詰の門、北から入る裏門は切り通しの部分にあった。
明治維新まで本丸には二十棟以上の建物が建っていたことは確かであるが、維新後間もなく総て取り壊され、資料も残っていないためその実態は不明である。
戊辰戦争で仙台藩が敗れ、西軍との降伏の調印が行われたのはこの場所である。
↑↑↑↑↑↑
12) 本丸跡から北を眺める・・・・っていっても、風景が変わりすぎちゃっててなんとも^^;(写真右)
小堤城跡(大雄寺)
伊達成実の菩提寺で、亘理伊達家霊屋と歴代墓所があります。
本殿の屋根(屋根っていうのでしょうか・・・;)
よ~く見ると、竹雀紋(左写真・左下)と三引両紋(右写真・やや左上)が
去年の夏頃に地元の方々が成実霊屋を修復をなさったのですね。とても発色が良くて、その中でも赤色が印象的でした。案内板も新しく建てられていました。それから、二代~五代夫人までの宝篋印塔(ホウキョウイントウ)という墓石のつくりがとても美しかったです。
亘理での最後の写真は、大雄寺から一望できる亘理の町並み。
わたしはどちらかというと山に囲まれた生活をおくっているので、海沿いの町の、視界いっぱいに広がる平野が新鮮で大好きです。
月曜日に出発したので、悠里館に寄れなかったのが残念
Posted by ハギヲ at 04:33│Comments(0)
│県南